いつかきっと晴れる

うつ病、パニック障害との闘いと思い

森田療法に救われた、倉田百三

倉田百三は、昭和初期に活躍した劇作家です。結核やメニエール病のような身体の病気の他に強迫性障害を患い、森田博士の治療を受けます。


『私は病気を治したとは一度も言わない。病気が治ったのである。というよりも治ったか治らないか知らないのである。(中略)私は強迫観念という恐るべき精神の障碍にかかって、その苦しみから逃れんとして逃れる事を能わず、遂にその苦しみを苦しみとして受け入れる外はなく、その打ち捨てた絶対忍従の生活態度を体得するに至り、心機一転して、いわばその体得の副産物として、多年の病気が治った次第なのです。』(「絶対的生活」より抜粋)


森田療法の特性でしょうか、治ったも治らないもないんですね。実感そのままの表現でしょう。ホント拍子抜けするほど簡単過ぎて、治ったとか治したとかの感覚はないはずです。


倉田百三の感覚なんでしょうが、「打ち捨てた絶対忍従」「副産物」という表現が面白いですね。


「打ち捨てた」が一番重要な事で、「絶対忍従」は闘いと捉えているんだと思います。少しの前に書いた、Okwebでの回答者の方が「闘ってください」と回答したのと同じ考え方です。


私の場合は、発作が出た時にそのまま放置するだけなので、闘いではありません。だから、忍従でもありません。この辺りは当事者の感覚なのでどちらが正しいかという問題ではありません。


「副産物」というのは、結果としてそうなってしまったという、偶然と捉えていますね。どうなのでしょうか?私はあくまでも「必然」で主産物だと思います。