いつかきっと晴れる

うつ病、パニック障害との闘いと思い

病院への不満

今回の入院で主治医との面談はありませんでした。面談をドタキャンされたりして結局、病状の説明はありませんでした。前回は、これから色々な症状が出てくるというおおまかな説明だけでした。手足の浮腫みの事などはネットで調べたくらいです。


おまけに死の3日前に痔の手術が行われました。姉や私に何の連絡もなく。88歳の不整脈の持病を持つ、末期ガンの患者に例え、痔の手術とはいえ、麻酔を使うのに家族の了承なしとは考えられません。


昨年来、排便の際に痔の為、出血があって痛いと散々訴えてきたのに肛門科の医師に見せずにただ、痔の薬を処方するだけだったのに・・・なぜこのタイミングだったのでしょうか?


良心的に解釈すれば、ずっと準備をしてきた結果がその日だったのかも知れませんが、そうならば余命を全く考慮してなかったとしか言いようがありません。経過観察がきちんとなされていなかったという事でしょう。結果は変わらなかったかも知れませんが、もう少し真摯に患者に向き合ってもらいたいものです。


どこかに「どうせそのうち死ぬんだから」といった感覚があったとしか思えません。


病院や医師、看護婦にとっては死は日常でしょうが、家族にとっては、非日常の極めて特別な事です。


この病院で最期を迎える、父の意思でした。どこまで本音だったのでしょうか?


最期の24日間の闘いが孤独であったのは間違いないでしょう。

父との別離

突然でした。


前回の記事を通勤中にアップし、職場に着くと、同僚が「携帯に着信入ってない?今、お姉さんからお父さん危篤の知らせが・・・」


携帯を確認すると姉からの着信が入ってました。電車内で気付かなかったようです。


すぐに折り返し電話すると、父の呼吸がおかしくなり、呼び掛けにも反応しなくなり、家族を呼んでくれと言われたと。着いたばかりの職場を後にし、病院に向かいました。


病院に着くと、父の意識はなく、酸素マスクをしながら荒い呼吸をしてました。暑いのか、シャツを捲りあげたり、お腹や胸を擦るような仕草をしていました。酸素マスクが鬱陶しいのか、時々外そうとしてました。


そして、呼吸と呼吸の間隔が段々と長くなり、やがて呼吸が止まりました。私が病院に着いて30分ほどでした。


とても穏やかな顔でした。今にも起き上がりそうな・・・


父には判っていたのかも知れません。


前日の涙と「見舞いは無理せずに来られる時でいいよ」が遠慮や思いやりと思ってましたが、「俺はもう逝くからもう見舞いに来なくても大丈夫だよ!」そう言いたかったのかも知れません。


父の手を握った事も今となれば、意識のあるうちのお別れの儀式だったような気がします。


判っていれば、前日もっと長くいればと後悔してます。


ここ一年ほどは父と濃い時間を過ごせたような気がします。


自力で立てない父を抱きかかえながら着替えをしたり、車イスでトイレや洗面所に連れて行ったり、粗相をしてしまった時の始末をした事もありました。


病気になって更に頑固になった父の言動に腹を立てた事もあります。決して綺麗事だけではありません。


そんな日々がとても懐かしく、だいぶ前の事のような感覚があると同時に病院に行ったら病室にまだ父がいるような感覚もあります。


今頃は、あの世で母とクロと再会している事でしょう。

父の涙

昨日、見舞いに行くと、「迷惑掛けて済まんなぁ」と目にうっすら涙が・・・


母の時も、クロの時も父の涙の記憶がありません。人知れず涙を流していたのでしょう。


身体の痛みが酷いらしく、「死んだ方がマシ」と弱音を吐いていました。


それでいながら「無理するなよ!顔を見られるのはうれしいけど、来られる時だけでいいから」「大丈夫だから」と早く帰そうと気遣いも。


ここのところの父の一番の変化です。以前はより長く側にいて欲しいといった感じでしたが・・・


父の手を強く握り、病院を後にしました。ペットボトルのフタが開けられないほど衰弱している父も弱々しく握り返してきました。